桜隠し

「桜隠し」が俳句の季語だと知ったのは後からだった。私が「桜隠し」だと思ったのは、2月27日、安倍首相が全国の小中高校や特別支援学校の一斉臨時休校を要請した時だ。25日に発表された新型コロナウイルス感染症対策本部決定の「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」を無視して、文部科学大臣や厚生労働大臣にもろくに相談もせず、議事録もない会議での決定だった。季語としての「桜隠し」は、桜の咲く頃に雪が降ること。また、満開の桜に積もる雪のことと美しい情景がイメージされるが、安倍首相の「桜隠し」はウイルスと放射能が混じった灰色の雪。隠されるのは「桜を見る会」に象徴される長期政権の腐敗、毎年3.11に再燃する福島第一原発事故処理や被災地復興に対する批判である。案の定、全国の学校現場はもちろん、家庭や職場、地域社会、何より経済に大きな混乱が広がった。被災地の聖火リレー関連行事も縮小等を余儀なくされている。今後の経済や生活への影響も計り知れない。対策本部の基本方針を踏まえて2月25日に発表された約2週間のイベント自粛期間が、これによって実質3月末まで延長された。開花が早いとされる今年の東京の桜は、そのころには散っている。当然花見も自粛ということになろう。
安倍首相は国会予算委員会で「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」を踏まえて一斉休校を要請したとしているが、同基本方針には、「今後の進め方について」として、次のように記されている。

5.今後の進め方について
今後、本方針に基づき、順次、厚生労働省をはじめと する各府省が連携の上、今後の状況の進展を見据えて、 所管の事項について、関係者等に所要の通知を発出するなど各対策の詳細を示していく。 地域ごとの各対策の切替えのタイミングについては、 まずは厚生労働省がその考え方を示した上で、地方自治体が厚生労働省と相談しつつ判断するものとし、地域の 実情に応じた最適な対策を講ずる。なお、対策の推進に 当たっては、地方自治体等の関係者の意見をよく伺いながら進めることとする。 事態の進行や新たな科学的知見に基づき、方針の修正 が必要な場合は、新型コロナウイルス感染症対策本部に おいて、専門家会議の議論を踏まえつつ、都度、方針を更新し、具体化していく。

出典:「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」
令和2年2月 25 日 新型コロナウイルス感染症対策本部決定

安倍首相は一夜にして、この基本方針を反古にし、各府省の連携、今後の状況を無視して、厚生労働省や地方自治体に相談なく、意見も聞かず、科学的知見に基づかず、ほぼ独断で全国一斉休校を要請したのである。さらにまずいのは、これに便乗した反中国・反韓国の右派議員がヘイトまがいの言説と関係断絶に動き、ウイルス対策に連携協力を強化すべき時期に再び日中、日韓の関係悪化を招いている。そして、国民の私権を制限し自由と人権を侵害しかねない「緊急非常事態宣言」に動き出していることである。

日本中をクルーズ船にしてはいけない

「海に浮かぶ培養皿」、「感染拡大の第二の震源地」と海外メディアから非難されたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」は、1月20日に横浜港を出港。25日に香港で下船した男性から感染が確認されたため、2月3日から検疫を実施。集団感染が確認された5日から健康観察期間の14日間が過ぎる19日まで、陽性が確認され船外に搬送された患者らを除く乗客は客室待機となった。陰性だった乗客の下船は19日から始まったが、全乗員乗客、そして船内で作業した厚労省職員らが下船したのは3月1日となった。この間に船内で計705人が感染し、うち乗客6人が死亡。下船後に感染が判明するケースも相次いでいる。3711人の乗員乗客のうち2割近く(18.9%)が感染したことになる。3月10日時点の厚労省発表では、PCR検査陽性は696人、死亡は7人である。
感染制御の専門家が乗船して感染抑制対策がとられたにもかかわらず、なぜここまで感染が広がったのか。それは、クルーズ船がまさに「海に浮かぶ武漢」と化してしまったからではないだろうか。武漢が十分な情報も与えられぬまま突然封鎖、隔離されたのと同様、突然検査が始まり、客室に閉じ込められたのだ。それまでの天国のように楽しいクルーズ船旅行が一転、娯楽も、会食も、交流の機会を奪われ、客室から出ることもできない監視付きの隔離生活。それが心身に与えるストレスは計り知れない。60歳以上が6割を占める高齢者集団であったこともあろうが、ウイルスに対抗する免疫機能は、日々高まる不安とストレスで著しく低下したに違いない。むしろ、感染して治療が必要と認められたほうが下船できるという誘惑すら感じたのではないだろうか。
武漢でも、クルーズ船でも、隔離して自宅や客室からの外出を制限しても域内の感染を止めることは困難だった。いま、「緊急非常事態宣言」を出して、過剰に国民の不安や危機感を煽り、全国民自宅待機、外出禁止命令が出され、警察や自衛隊が監視に回るなどという状況だけは絶対に避けていただきたい。むしろ行うべきは、感染を防ぐと同時に免疫機能を高めるためのケアであり、それを提供できる社会の生態系をまもり活かすことである。
保健室があり、養護教諭もいて、給食で栄養管理もされている学校は、子どもたちにとって安全な場所のひとつである。さらに課外活動や塾や習い事教室、スポーツクラブ、学童保育、子ども食堂、フリースクール、地域の子ども会等々の生態系の中で子どもたちの心身の健康と安全は保たれている。家庭は必ずしも安全な場所とは限らない。課外活動も禁止され、塾や習い事教室、スポーツクラブなどが閉鎖されてしまえば、学校から締め出され、居場所をなくす子供たちは少なくない。
とにかく避けるべきは全国一斉である。地域の状況を見て、急を要するところから漸次的に取り組むことによって、先行的取組の成功・失敗を次の地域やケースに活かすことができ、保健医療等の資源も有機的に効率的に活用できる。
阪神・淡路大震災、東日本大震災、福島第一原発事故、最近頻発する風水害を経て、わが国の地方自治体や企業、地域の危機対応の生態系の機能は高まってきている。それを信じ、活かすことに力を注がなければ、今後も続く手強いウイルスにとの戦いに打ち勝つのは難しい。安易に「緊急非常事態宣言」を全国一斉に適用し、日本中をクルーズ船にしてはいけない。「パンデミック」、「インフォデミック」と危機感を煽り、行動統制、言論統制をしても社会や心身の免疫力は上がらない。今後、気候変動とともに感染症は次々と猛威を振るうことが予想される。パンデミックに打ち勝つためには、地球の生態系全体の健全さを保つこと、エコロジカル・ヘルスが重要だ。動物由来の感染症対策の世界ではこれを「One Health」と呼ぶ。この難局に打ち勝ち東京五輪・パラリンピックを開催するために、目指すべきは「One Health」だ。

2020年3月10日 久米谷 弘光